仏都会津の心 薬師如来坐像の復元
1200年のときを越えて現代によみがえる薬師如来
東国の仏教文化黎明期における拠点寺院の一つであった慧日寺は、会津の霊峰磐梯山を望む山麓に、南都法相宗の学僧徳一によって創建されました。徳一は、この地を礎として広く仏の教えによって衆生を救済したといわれており、その救済の中心に据えた尊像が、金堂に安置されていた丈六の薬師如来坐像でした。
この薬師如来坐像は、造立以来幾度となく火災や戦火に見舞われながらも、篤い信仰に支えられ、その都度再興を繰り返してきました。しかしながら、廃寺後の明治5年に火災によって焼失して以降は、再びよみがえることはありませんでした。
廃寺後の寺跡は昭和45年に国の史跡指定を受け、現在町では史跡整備事業を継続しています。その一環として、初期の伽藍を対象とする整備方針のもと、平成21年までに金堂・中門の建物復元などを含む中心伽藍の整備を図りました。竣工後大勢の来訪者を迎える中で、金堂内に立体展示物を設置することによって往時の雰囲気が醸し出され、慧日寺に対する歴史理解も一層深まるのではないか、ひいては史跡の保全と活用の促進にも結び付いていくのではないか、との気運が次第に高まっていきました。そうした中で、国・県・町議会のご理解と多くの方々のご支援を受け、創建期の薬師如来坐像の原寸大復元制作に取り組むことを決定しました。
町では、平成26年度に「史跡慧日寺跡復元金堂内展示物調査・検討専門委員会」を立上げ、我が国の仏像研究の最先端を歩む先生方の指導のもと、調査研究・検討を重ねました。その成果を受けて、翌平成27年度からは東京藝術大学大学院美術研究科保存修復彫刻研究室との研究連携により復元制作に着手し、以来3ヵ年をかけて平成30年の夏に完成展示を迎えるに至ったところです。
多くの方々の知恵と技を結集して約150年ぶりに甦った薬師如来坐像が、慧日寺の歴史を雄弁に語り、仏都会津の新たな文化資産として大いに活用されることを期待します。
慧日寺本尊薬師如来坐像の再興の歴史
会津五薬師の東方薬師として広く知られる慧日寺。本尊丈六薬師如来坐像の建立は慧日寺の創建に遡り、金堂の変遷と共に焼失と再興の歴史を繰り返しました。諸記録をもとに、以下にその変遷を紹介してみます。
大同2年(807) | 本尊丈六薬師坐像を造立 【「恵日寺縁起」『会津旧事雑考』】 |
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承久3年(1221) | 恵日寺に獅子繡有り【『会津旧事雑考』】 |
承久3年(1221) | 薬師如来御宝前に障子一本を施入【『新編会津風土記』】 |
この間に罹災か? | |
観応元年(1350) | 大寺薬師安座 【『会津旧事雑考』】 |
観応元年(1350) | 会津恵日寺薬師堂再興【『異本塔寺長帳』】 |
応永25年(1418) | 恵日寺火災により丈六薬師像が燼滅 左手と薬壺のみ焼け残る【『会津旧事雑考』『異本塔寺長帳』「恵日寺縁起」】 |
永享7年(1435) | 慧日寺金堂鉢奉納 【梵字「バイ」(薬師如来) 「鉄鉢銘文」】 |
この頃までに再興か? | |
天正17年(1589) | 伊達政宗の会津侵攻により恵日寺焼失 金堂のみ焼失を免れる【「恵日寺縁起」】 |
天正19年(1591) | 薬師御宝前に「大師行状記」十巻を奉納(薬師如来の存在 金堂が火災を免れたという論拠) |
寛永2年(1625) | 恵日寺火災 左手と薬壺のみ焼失を免れる 【『新編会津風土記』】 |
寛永3年(1626) | 金堂火災 左手と薬壺のみ焼失を免れる【『会津旧事雑考』】同一の焼失記事、年代の錯誤か? |
明暦年間(1655 ~ 58) | 保科正之により復興【「恵日寺縁起」】 |
万治元年(1658) | 本尊焼失か?再興か?【「恵日寺本尊再興之覚」】 |
貞享2年(1685) | 恵日寺の年中行事書上げに「薬師堂に参籠」「薬師御宝前に勧請」などの記録 |
元禄2年(1689) | 「磐梯山金剛院恵日寺御公儀江指上候絵図之下書」の中央に「薬師御堂五間四面」の御堂が描かれている |
正徳3年(1713) | 本尊再興 本尊・後光・台座ともに総高二丈 【「恵日寺本尊再興之覚」「…堂内屋上裏より敷板迄壱丈七尺縁下三尺御座候 依之敷板を取尊像安置‥」】 |
正徳4年(1714) | 本尊再興開眼供養 丈六薬師一躰【「恵日寺本尊再興開眼供養覚」】 |
享保2年(1717) | 薬師堂の修復願いを寺社奉行所に提出【「恵日寺薬師堂修復願之覚」】その後、藩による恵日寺修復は停止【「恵日寺修復停止の仰渡さる状」】 |
享保13年(1728) | 58 世実辯、薬師堂再興の勧進【「磐梯山縁起(薬師堂造立勧化之牒)」】 |
享保18年(1733) | 58 世実辯、薬師堂再興の勧進【「大寺恵日寺略縁起」】 |
嘉永3年(1850) | 金堂薬師如来 但 左手薬種壺大師御作【「恵日寺宝物記写」】 |
明治5年(1872) | 6月 近くの小屋から出火し薬師堂・鐘楼延焼 薬師化仏は外して避難、仏頭のみ焼け残る→大寺の能満寺に避難 |
明治12年(1879) | 3月 能満寺虚空蔵堂火災の折に仏頭焼失。以後、再興されず |
薬師如来坐像復元に至る経緯
史跡整備事業の一環として建物の復元を行った金堂内には、パネルや説明板を設置して一般公開を行ってきましたが、建物内部の情景を具体的に造り出すことによって、その用途や機能がより臨場感をもって理解できるようになると考え、町では創建当初の金堂に安置されていた薬師如来坐像を古像の復元模型として制作・展示する方針を決定しました。
展示物としての制作ながら、学術的な調査・研究をもと、時代・地域にあった歴史資料として、かつ芸術作品としても価値があるものを目指しました。
薬師如来坐像復元展示物の概要
復元にあたっては、平安時代初期に制作され現在に遺る様々な像を参考にしました。例えば、着衣形式や眼差し・耳の形状は、造像環境が特に近かったとみられる湯川村の勝常寺薬師如来坐像を、像高や光背、裳懸などは造立時期が近い奈良の新薬師寺薬師如以来坐像を参考にしています。そのほかにも、分厚い体躯や量感豊かな肉身部の表現、奥行きの狭い両脚部、縞の立った翻波式衣紋など、平安初期彫刻の多くにみられる特徴を取り入れました。
また台座は、時代的背景から裳懸のついた宣字座であった可能性が高いと考えられ、巨大な薬師如来坐像の重量に耐えうる強固なものとなっています。