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史跡慧日寺跡
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史跡慧日寺跡(徳一廟、今与供養塔、伝高幡寺跡、磐梯神社、木ざし桜、戒壇跡)

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月1日更新

徳一廟

徳一廟

慧日寺を開いた徳一の墓と伝えられる平安時代の石塔です。かつては三重と思われていましたが、発掘調査によって五重の石塔であることが分かりました。高さ2.95メートル、屋根と上重軸部が一石になっていて、屋根は錣葺(しころぶき)形に造られ、軒先には風鐸をつり下げた痕があります。石塔は風雨にさらされ、戦後の大雪で倒壊した際に二重目の塔身に納められた土師器の甕(かめ)が発見されました。

また、昭和54年~57年にかけて保存修理を行い現在の覆堂を設けました。その際石塔の下から経石131個が出土しました。

経石は江戸時代末期のもので、真言宗の尊師や父母兄弟の供養のため書写され、埋納されたものと考えられます。

慧日寺周辺の住民は石塔を削り、薬として服用したこともあったので、軸部などが細くなってしまっています。この風習は慧日寺の本尊、薬師如来信仰によるものと思われます。

今与供養塔

今与供養塔

徳一没後、慧日寺は、今与(金耀)が跡を継いだといわれ、その後も平安時代を通して隆盛を誇りました。

しかし、平安末の源平合戦には、平家に味方したため、急激に衰退し、更に中世末には、伊達勢の会津侵入の折に堂宇は灰燼(かいじん)に帰したと伝えられます。

江戸時代には、会津藩の保護によりわずかに宝燈を守っていたが、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によりついに廃寺となりました。

しかし、地元住民の切なる願いにより、明治37年に恵日寺の寺号が復興され現在に至っています。

なお、文献などによれば、宗派も法相(ほっそう)宗~天台宗そして現在の真言宗になったようです。

伝高幡寺跡

徳一廟の東方、柿畠の中に礎石が残っています。

間口五間に、奥行が四間の見事な礎石群です。会津盆地を見下ろす景勝地にあり、かなり重要な堂宇があったと推測されています。

磐梯神社

磐梯神社

慧日寺の守護神として祭られた磐梯明神が神仏分離で独立した神社。

ここで毎年春分の日に行われる「舟引き祭り」は年占の神事です。

木ざし桜(種蒔き桜)

木ざし桜(種蒔き桜)

乗丹坊がさした桜の杖がこの樹になったと伝えられるエドヒガンザクラの古木。

 戒壇跡

戒壇跡

慧日寺金堂跡より北西に500メートル離れたところあり、現在も発掘調査が行われています。

慧日寺別院と考えられる花輪寺の祖師(開祖)の墓で、花輪寺廃絶後、それが忘れられて「戒壇」と呼ぶようになったと推測されます。 磐梯町発行:「徳一菩薩と慧日寺」より引用


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