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史跡慧日寺跡
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史跡慧日寺跡(恵日寺本堂・山門、乗丹坊供養塔、龍宝寺、仁王門、薬師堂)

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月1日更新

恵日寺本堂・山門

恵日寺本堂・山門の写真

平将門の寄進と伝えられている山門。

いずれも江戸中期の建立。近世の慧日寺を伝える数少ない建造物の一つ。

絹本著色恵日寺絵図

絹本著色慧日寺絵図の写真

中世の慧日寺の伽藍や周辺の景観を絵図にしたもので、描かれた時期は不明ですが、室町時代の永正8年(1511年)に修理されたことが記入されており別名「永正古図」と呼ばれています。
平成15年にも大修復が行われました。県指定重要文化財。

乗丹坊供養塔

乗丹坊供養塔の写真

この宝篋印塔(ほうきょういんとう)は乗丹坊の墓と伝えられています。

乗丹坊は慧日寺最盛期の衆徒頭で、平安時代末期には僧兵数千人を動員する勢力があったといわれています。

養和元年(1181年)6月平氏の命を受け、越後の豪族城氏と共に木曽義仲を追討するため、会津四群の兵を率いて出陣しましたが、信州横田川原(現在の長野県篠ノ井付近)の合戦で敗れて討死にしました。彼の死によって会津慧日寺の勢力は大きな打撃を受け、次第に衰退の一途をたどっていきます。この合戦のようすは『平家物語』などに見ることができます。

この宝篋印塔は高さ2.7メートル、台石には美しい形の格狭間(こうぎま)を表し、塔身の四面には薬研彫りによる梵字が刻まれ、笠はややゆがんでいるものの隅飾突起が直立に近く古い形式を残しています。

全体として地方色が強く、中世後期に建てられた供養塔と思われます。

不動院龍宝寺不動堂

不動院龍宝寺不動堂の写真

会津地方における修験道(しゅげんどう)の広まりは、慧日寺創建よりいわれ、大伴家が大寺修験の指導者として盛衰を繰り返しながら続いてきました。そのため、磐梯修験は大伴修験とも称されてきました。

『新編会津風土記』には、磐梯山・厩嶽山(うまやさん)の他に吾妻山修験を掛け持ち、猪苗代成就院と共に活動していたことが記載されています。

龍宝寺は永正18年(1521年)九州彦山の仲津郡より彦山流の伝灯を受け、寺号を「磐梯山不動院龍宝寺」と称しました。宝永年中(1704年~1710年)になると大寺修験の勢力圏は猪苗代領にあり、大伴修験は成就院の支配下に入りました。

大伴修験はその後彦山流から京都聖護院に移り「不動院」を「龍宝院」と改め「磐梯山龍宝院」と称しました。

現在の龍宝寺は修験不動尊として約180年前の再建といわれ、桁行、梁間とも三間の入母屋造りで、磐梯山修験の祈願所となっています。

仁王門

仁王門の写真

この仁王門は当初どの場所にあったのかわかりませんが、江戸時代後期に慧日寺の仁王門として建立されたと考えられます。明治5年(1872年)に薬師堂と鐘楼が焼失した際に難をまぬがれ、現在までに三たび移築されました。通路の左右の土間には平らな石を据え、江戸時代中期作の仁王像を安置しています。

昭和45年(1970年)に修理が行われた時、柱の足元を切り縮めたため、全体の高さなど当初の状況は明らかではありません。しかし仁王門として比較的平面規模が大きく、木柄が太い独特の特徴を持っていることから、近世の慧日寺を解明する重要な建造物となっています。

薬師堂

薬師堂の写真

慧日寺の本尊でもあった薬師如来は、会津五薬師のひとつである「東方薬師」として親しまれてきました。慧日寺は中世以降、薬師信仰に基づき治病延命、産育、子孫繁栄を祈願する庶民信仰の寺としても栄えました。

薬師堂は、明治初めの廃寺後に磐梯神社の仮殿として用いられたこともありましたが、明治5年に火災に遭い焼失してしまいました。しかし、地元住民の薬師堂再建へ向けた切なる願いにより、明治32年に桁行、梁間とも三間の寄棟造りで再建されました。

慧日寺を創建した徳一が、薬師信仰を主体として会津地方に仏教を広めたことや、その後も会津五薬師のひとつとして篤い信仰を集めたことなど、慧日寺の歴史を伝える重要な建築物でもあります。


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