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まちの歴史

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月1日更新

歴史の概要

本町は、万葉集に詠われる「会津嶺の国」の郷として、平安時代には磐梯山頂に磐梯明神を奥の院として祀り、会津地方の拠点として隆盛を誇った慧日寺があります。古くは、縄文時代の早期から人々が堅穴住居に居住する遺跡が町内各所にみられ、本町の最東部で隣接する猪苗代町地区にかけては、縄文時代のベットタウンとして数百棟の住居跡が確認されています。

平安初期の大同2年(807年)奈良の学僧「徳一」によって創建された慧日寺は、会津仏教文化の拠点として栄え、寺領18万石・寺僧3,800坊、衆徒4,000を擁していたといわれ、会津一円を寺領として支配していました。

しかし、養和元年(1181年)慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四軍を引き連れ信州横田河原に出陣し木曽義仲に敗れ戦死し、更に武家社会の到来などにより影響を受け、天正17年(1589年)には、伊達政宗の軍勢が会津に侵攻し、葦名氏との決戦場なった磨上原の合戦で慧日寺の一部が焼失し、その後衰退の道をたどりました。

徳一は、我が国の仏教史に刻する名僧であり、この地から法論を発信していました。特に弘法大師空海や伝教大師最澄との論争は著名であります。

磐梯町の成立は,寛文6年(1666年)以前より猪苗代川東組(大寺村・布藤村-本寺村等)と耶麻郡塩川組(赤枝村・上西連村・下西連村・落合村-入倉村)に組み込まれており、その後川東組が川西組の変遷があり、明治12年に耶麻郡役所が塩川村に設置され、更科村・磐梯村・大谷村・赤枝村他54ケ村に戸長役場が置かれました。

明治22年(1889年)には、4つの村が町村制の施行により合併して磐梯村に、昭和35年(1960年)には、町制を施行し磐梯町となり、現在にいたっています。

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